アーティストインタビュー アーノルドグッドラックその2

 

前回の記事はこちら。

アーティストインタビュー アーノルドグッドラックその1

 

アーノルド:経験でスタンプはちょうどいいデザインが出来上がると思うんだけど、妻はすべて線を引いて、どこに何を打つかを決めないとできない。「適当に」感性に任せてスタンプを打っていくというのは経験がないとできないと思う。

アメ駐:なるほど、アーノルドは地元の学校の役員もずっとやられていますけど、昔と今を比べてナバホ族の文化についてどう変化したと思いますか?

アーノルド:僕たちが子供のころはいろいろなルールがあいまいで、とてもワイルドだったよ。祖母が道端に露店を出してそこでハンドメイドのナバホラグを売っていたんだけど、その時「ちょっと店番してくれ」って頼まれて一人でよく店番をしていた。7歳のときだったかな。

これは今は笑い話で、祖母のラグを50ドルで売るはずだったんだけど、長距離トラックの運転手が「亀二匹と交換してくれ」って言われて子供の僕は50ドルよりも亀二匹のほうが嬉しかったから、交換してラグをあげたんだ。祖母には恐ろしく叱られたけどね。

こういうワイルドな出来事がたくさんあったけど、子供のころ良い所も悪い所も見てきたから今思うとそれがすべて学びになって今につながっていると思う。

昔は本当に嫌だったけど、羊を売りに行ったり、牛を売りに行ったり、羊の毛を飼ったり今でいう肉体労働を子供のころからたくさんしていて、その中で学んだことはたくさんあるしとてもそのことに感謝している。

学校の会議に参加していると、みんな「学校教育がすべて」という風に思っているけど、実際はそうじゃなくて経験してきたことすべてが学びになると思うよ。

アメ駐:すごい、まさにそうですね。その中でどう工夫していくかというのを学ぶのがまさに実践的な勉強ですね。

いつもショーの出展などで忙しいアーノルドですけど、家畜の世話って本当に大変ですよね、それでも続けるのはどうしてですか?

アーノルド:うーん、あまり深く考えたことはないけど、そういう風に育てられたからだね。僕も妻の家族もみんな羊持ちの家庭で育って、妻の祖父は羊を600頭も飼っていた時もある。羊の数は地位を表すし、羊といろいろなものがトレードできるからね。

アメ駐:どこかで商売人の地が流れているんですね。

アーノルド:僕が最初にお金を稼いだのは5歳ごろなんだ。その祖母の店番をさせられているときに、化石化した木(ペトリファイドウッド)を一個25セントで売ったら売れて、その次の週に箱いっぱいに集めて、また売った。

アメ駐:完全に商売人ですね笑

アーノルド:その時はいとこが隣で同じ商売をし始めてすぐにやめたけどね笑

自分で作り出したものを売ったり、自分が発見したものを売ったりしてお客さんが喜んでくれるというのが一番の経験で、それは今も変わっていないし僕の人生はそれがすべてかな。

最初は興味のない所から始まるんだよ、何事も。それを一生懸命経験していくことと勉強して上達していくことから身になっていくんだ。

娘たちは僕のシルバースミスとしての仕事に全然昔は興味がなかったけど、今は自分でジュエリーを作ることにとても興味を持っている。

今後もグッドラックジュエリーとして続いていけるような父でありたいと思うよ。

アメ駐:感激です。アーノルドのスピリット部分が少しわかったような気がします。本当にありがとうございました!

アーノルドグッドラックは、「グッドラックジュエリー」としてネイティブアメリカンのジュエリーショーだけではなく、ウェスタンやファッションなどのいわゆる「白人さんのショー」というイベントにも参加して、自分たちがハンドメイドで作るジュエリーの良さをお客様に直接伝えるということを積極的に行っている数少ないシルバースミスです。毎週のように様々なイベントに出展し、本当にみんな働き者のグッドラック家。

アーノルドのジュエリーはこちらから。

アーティストインタビュー アーノルドグッドラックその1

今回はアーノルドグッドラックのインタビューをお届けします。

あまり知られていないのですが、彼の曽祖父にあたるHosteen Goodluck(ハスティーングッドラック)は1920年代のインディアンジュエリーが作り始められた時代の非常に有名なシルバースミスでした。

ハスティーンは1920年代から40年代ごろ有名なトレーダーの下で働き、彼のコンチョベルトやスクオッシュブロッサムは博物館や有名コレクターに納められるジュエリーとなっています。

 

アメリカ駐在(アメ駐):アーノルドは元々はどうやってジュエリーづくりをすることになったんですか?

アーノルド:父のテディグッドラックのジュエリーづくりを小さいころから手伝っていたよ。1970年代ごろかな。でも学校に行き、大学まで行けることができたからそれまではずっとやっていなかったんだ。大学で出会った今の妻と結婚するんだけど、1980年代の後半に妻がまたジュエリーを作り始めたんだ。

アメ駐:そうなんですね、じゃあ元々はジュエリー作家になる予定じゃなかったんですか?

アーノルド:うん、家畜の病気のケアや世話の専門家になる予定だったんだよ。まぁ今もその知識は牛や羊に使っているけど、ジュエリーを本業にするとはその時は思っていなかったかな。

アメ駐:なるほど、曽祖父のHosteen Goodluckが有名だったのはその時知っていましたか?

アーノルド:あまり知らなかったね。ジュエリーを売るようになってコレクターの人に「グッドラックということはハスティーンと関係があるの?」と聞かれて、そんなに有名だったことを知ったんだ。

彼のジュエリーは、羊の世話を手伝ってくれた支払いの代わりにその従業員に送られたりしていたようで、実際に商品としてたくさん売られていたわけじゃないんだ。

その時代は刻印が使われていなくてシルバースミスもとても少ない時代だったから、作品の鑑定というか、それがハスティーンのものかどうか聞かれることも今ではよくあるよ。

アメ駐:最初アーノルドと奥さんがジュエリーを作り始めた時のスタイルというのはどんな感じだったんですか?

アーノルド:父のテディはシャドーボックスのスタイルでとても知られていたから、シャドーボックスのスタイルを作りそれを一つのトレーダーにずっと売っていたんだ。

アーノルド:でもその会社が急に倒産してしまって、自分たちでショーに出ていろいろな人に売るようになってから今のスタンプワークや動物モチーフ、伝統的なスタイルのものを要望に応じて作り始めたのがきっかけかな。

アメ駐:なるほど、だからこんなにいろいろなスタイルが作れるんですね。

アーノルド:最初はシャドーボックスしか作れなかったけど、お客さんの要望に応えるために道具をそろえて、やってみて、磨いていく、それを繰り返したからかな。それしか上達の道はないよ。実はジュエリーを作り出した妻は、スタンプはできないんだ。

 

次回につづく。

アーノルドグッドラックのジュエリーはこちらから。

 

アーティストインタビュー スティーブアルビソ 考え方編

アーティストインタビュー続編

前回の記事はこちらから。

アーティストインタビュー スティーブアルビソ ジュエリー編

アメ駐:デモンストレーションなどで日本に行って、たくさんの日本人と知り合って、率直に、日本人のことをどう思いますか?

スティーブ:僕はアメリカの外には日本にしか行ったことがないから比較しようがないんだけど、とても勤勉でよく働いて、ものの本質を見る人が多いなと思うよ。

アメ駐:なるほど、じゃあナバホ族の人についてはどう思いますか

スティーブ:・・・・それはすごく難しい質問だね。ちょっと時間がほしいなぁ。僕はコミュニティの村長をやっていて、ナバホの政府の仕事もしたことがあるからすごくそれの返答は難しいね。。。。

やっぱり、怠惰だっていうのはあるね。それは日本人とたくさん出会っているから比較できるんだけど。

あとは言い方が難しいけど、「現実から取り残されている感じ」はあるかな。歴史的に見ても、ナバホ族というのは本当に賢くて強い部族なんだ。でもそれを活かせていない。頭のいい人たちは都会に出て行ってしまって、リザベーションに戻ってこない。もちろんそれは歴史的な問題だけどね。

アメ駐:それはきっとどこの国にも言えることでしょうね。

スティーブ:ジュエリーもそうだけど、「伝統を守ること」をずっと続けてきたから、外部との接触とかそれを盗まれるや公開することにすごく敏感で新しいことがなかなか受け入れられないんだ。

アメ駐:そうなんですね。ソーシャルメディアも今は持っているアーティストが増えましたけど、それについてはどうですか?スティーブも最近インスタグラムを始めたんですよね。

スティーブ:まだ抵抗があるし、僕ら世代の人々にはやっぱりいいイメージというのはない人が多いと思うんだけどね。昔はみんな貧乏で、みんなお金がない、お金持ちは白人だけという社会だったから、同じ部族の中で格差ができるとすぐに妬みになる。自分は村長という立場でもあるし、公に出ることというのはとても勇気がいることなんだ。でもアーティストとしてそういう社会を変えていくべきだとも思っている。

アメ駐:伝わらないともったいないと私も思います。スティーブは仕事ということ対してどう思ってますか?スティーブにとっての仕事とは?

スティーブ:僕にとっての仕事ね。(しばらく考えて)これは今の意見でいいの?年代と環境によって全然変わってくるからね。若い時はお金ありきだったけど。。。。

アメ駐:今の考えで大丈夫です。

スティーブ:仕事とは、一言で言うなら「家族の生活をよくするもの」だね。

僕にとっての一番の仕事は、雪かきをしたり、雨で流された土を埋め立てたり、家の周りを過ごしやすいようにきれいにすること。

次は、馬に牧草をあげて、馬の様子をチェックすること。

そして、子供たちや家族に必要なものをそろえること。

そのためにお金が必要なのであれば、そのためのお金を準備するためにジュエリーを売る必要がある。

アメ駐:アーロンアンダーソンのインタビューでも同じような答えが出てきました。子供たちが卒業したらジュエリーは作らないかもって言ってましたよ。

スティーブ:そうなんだ、でもきっとアーロンは作り続けるだろうね(笑) 

例えば人生に満足してしまったら仕事なんてする必要ないんだよ。だから、仕事をしているということは何か改善したいと思っていることがあるということ。経済面でも、生活の面でもいいけど、だから人間は一生満足しちゃいけないんだと思うよ。

アメ駐:なんだかかなり深い話になってきましたね。大切にしている人生の教訓はありますか?

スティーブ:教訓ね。自分の信念というのは言葉にするのは難しいけど、僕は甥っ子が多いから、彼らにはいつも「Don’t do anything in half ass」っていうのはよく言うね。

アメ駐:直訳すると、「何事も半ケツでやるな(笑)」

つまり中途半端にやるなってことでしょうか。

スティーブ:そう、何事も、やるなら全力できっちりとやる。中途半端にやるくらいなら、やらない。

例えば馬の世話。昨日甥っ子に、馬に水をあげてって言ったら、汚い水がまだ入ったドラム缶にきれいな水を入れるんだ。そんな中途半端なことをするんだったら、やらない方がいいって怒ったばっかりだよ。

アメ駐:そのスピリットはスティーブのジュエリーにも表れてますね。

本当に興味深いお話、ありがとうございました!!

 

スティーブアルビソのジュエリーは見れば見るほど繊細で丁寧な仕事だと感心します。スピリットやこだわりを聞くと、作品を見る目が全く変わってきます。

 

 

 

アーティストインタビュー スティーブアルビソ ジュエリー編

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さて今回はスティーブアルビソのインタビューを製作風景と共にお届けします。

アメリカ駐在(アメ駐):スティーブさんはコミュニティの村長をやっていますよね?

色々とナバホ族の根本的な考え方というのも聞きたいのですが、まず初めにスティーブはいつからジュエリーを作り始めたんですか?

スティーブ:高校を中退して軍隊に入って、帰ってきて2年してからだから1986年かな。姉がジュエリーを作ってたから、それを手伝い始めたのが始まりなんだ。

アメ駐:そうなんですね、スティーブはサンシャインリーブスから紹介してもらったし二人はかなり仲がいいですけど、もともとサンシャインリーブスとは知り合いだったんですか?

スティーブ:サンシャインは1985年とか84年から知っているよ。二人ともジュエリーを作り始める前。お互いに木材の運搬をするトラック運転手の仕事をしていてそこで知り合ったんだ。

アメ駐:そんな古い知り合いだったんですね!

スティーブ:そうだね。そこからお互いにシルバースミスになって、僕はトレーディングポストにワイヤーワークとかスタンプワークを使ったジュエリーを大量に作って売っていた。若かったしね、一日100個とか200個とか作ってたよ。

サンシャインもそうだし、ゲーリーとかダレルキャドマンもみんなが働くスタジオが近くにあったから、よく遊びに行ってサンシャインと一緒によくパーティしたよ(笑)

アメ駐:そこでハリーモーガンとも出会うんですよね。

スティーブ:そうだね。1992年ごろかな。自分のジュエリーの経歴はすでにあったんだけど、今の自分のスタイルの根本はすべてハリーモーガンから来ている。

アメ駐:ハリーモーガンの教えはどういったものがありましたか?

スティーブ:「見て学ぶ」というのは結構知られているストーリーだよね。言葉で教わることはあまりなかった。ハリーは本当に細かいところに気を配る人だった。サンシャインと一緒にスタジオに行くと、いつも仕上げのやすりを時間をかけてやっていたから、一回いたずらでハリーがいつも使うやすりを隠して困らせたことがあるぐらいだよ。僕が細かいところに気を配るようになったのは、そのハリーの姿勢を受け継いでいるからだね。他の人が気にしない少しのゆがみとかが気になってしょうがないんだ。

アメ駐:なるほどそうだったんですね。具体的にハリーモーガンから学んだことでスタイルはかなり変わったんですか?

スティーブ:昔は銀が今の3分の1ぐらいの値段だったから、安いジュエリーもたくさん作れた。ハンドメイドでも大量にたくさん作れる、そういうジュエリーを自分は作っていたけど、ハリーは2000年までに自分のアーティストとしての名前をちゃんと確立しなさいと言ってくれた。もしかしたら銀の価格が上がることを見越していたのかもしれないし、市場がこうやって変わることが分かっていたのかもしれない。そのおかげで、大量生産のたくさん作るジュエリーから1点もののジュエリー、ターコイズにこだわっているオールドスタイルという今のジュエリーのスタイルになった。

アメ駐:そうなんですか、すごいですね。以前日本で電車に乗ってるときにこの人ハリーモーガンみたいって言ってましたよね(笑) 私も会ってみたかったなぁ。

他に、自分のジュエリーについて大切にしていることはありますか?

スティーブ:ハリーはとても腕が良くて本当にいい仕事をするんだけど、いいターコイズを使わなかった。それを僕はすごく疑問に思っていたんだ。だから僕はターコイズにはこだわっている。

おかげでインディアンマーケットでは、いつもお客さんにここに行けば本当にいいターコイズに会えるから毎年来ると言ってもらえるようになった。

アメ駐:ターコイズの値段が上がっていく中でハイグレードターコイズを使い続けるのは大変ですよね?

スティーブ:そうだね、値段はどうしても高くなってしまう。でも「質」は大事だよ。レストランでもなんでも、質がよければ自然にお客さんが来るし、ジュエリーも一緒で質が良ければ必ず見てくれる人がいる。

アメ駐:なるほど、ではスティーブの尊敬する作家は?

スティーブ:「自分が一番だからいない!」・・・というのは冗談で、技術を習ったという点ではハリーモーガンだね。でもアーティストそれぞれ得意な分野があるからたくさんのアーティストを尊敬しているし、人に対して尊敬の念を持つっていうことは大事だよ。

アメ駐:なるほど、ジュエリーづくりで大切にしている思想みたいなものはありますか?

スティーブ:うーん、「自分が満足する作品でなければ世に出さない」ということかな。自分が売りたくないって思うほどに満足した作品を作れた瞬間っていうのがアーティストであることの醍醐味だと思うんだ。自分が少しでも気になる所があったら、それは僕の名前で売ることに抵抗があるから誰が何と言おうとその商品は売らない。

アメ駐:これでもいいかなというレベルでは売り物にはできないということですね。

 

次回へ続く。

スティーブアルビソの作品はこちらから。

アーティストインタビュー「アーロンアンダーソン」日本とのかかわり編

 

マライカとの出会いまでの、前回のインタビュー記事はこちら。

アーティストインタビュー「アーロンアンダーソン」歴史編

 

アメリカ駐在(以下、アメ駐)2013年に初めて日本に来日してマライカでデモンストレーションをして、その後色々な変化があったと思うんですけどどうでしたか?

アーロンアンダーソン(以下、アーロン)うん行って、日本のお客さんと売り場、スタッフの人たちを見て、とても考え方が変わった。

アメ駐 どういう風に?

アーロン 今まではもっともっとすごいものをって思っていたけど、実際に自分のジュエリーの値段が上がりすぎていて、一部の人しか買えないものになっていたことに気づいたんだ。だから、自分のジュエリーの値段を下げたいと思った。

アメ駐 たしかに、そこから少しスタイルを変えましたもんね。

アーロン そう、僕の作品をもっと多くの人に所有してもらいたいってすごく思った。そのために小さいものや少しポップなものとかも作り始めたんだ。

それと、日本に行って、僕は自分がすごく恥ずかしく感じた。

アメ駐 恥ずかしい⁉

アーロン インディアンって、適当に仕事して、適当に毎日を過ごしている人が多い。でも日本人がどんなによく働いているかを見て、お客さんもバイヤーさんも、そうやって頑張った結果僕のジュエリーを買ってくれていると思うと、自分の生活がすごく恥ずかしくなったんだ。

アメ駐 そうなんだ。でもそういう考えの違いとか、勤勉さとか、インディアンの価値観からすると理解できないことかなって私はずっと思っていました。

アーロン たしかに大半の人はそうかもしれないね。

アメ駐 でもアーロンはどうしてそういう考え方ができるんですか?何か理由はある?

アーロン 僕の母は学校の先生だった。兄弟は6人いたんだけど、兄弟みんな高校を卒業して、大学も出てるんだ。

アメ駐 すごい!アーロンの世代だとまだ高卒とか高校中退も多い世代ですよね。

アーロン そう。母は朝五時にヒッチハイクをして仕事に行き、その毎日で6人を大学まで育て上げた人なんだ。彼女がどんなに働いてきたかを見ていて、ちゃんと教育も受けているから、僕の兄弟はみんなすごい出世している。長男は学校でずっと成績トップ。僕がクレイジーだった時代は、なんでこんな子になってしまったのかってみんな思っていたらしいよ。

アメ駐 そんな風に見えない!(笑)

アーロン ある時、セレブのコレクターと、酔っ払いの友達が両方見ている中でデモンストレーションをしたこともあるよ。クレイジー時代の友達は刑務所に行ったりした奴もいるし、今もすごいアル中のやつもいる、でもみんな同じように自分は付き合ってるからね。それは今までの自分の経歴があるからだと思う。

アメ駐 なるほど。アーロンの名前が有名になっていくことで、何か葛藤というかそういうものってある?

アーロン もっとお金を稼ぎたい、もっといい車に乗りたい、もっともっとっていう作家もたくさんいる。

アメ駐 私もビジネスの面で考えるとすぐにもっともっと!って思ってしまうので、そこのところの考えが聞きたいです。

アーロン 僕もそれを思うことはあるけど、僕が今ジュエリーを作って売る、その一番の目的は子供たちを大学卒業まで育てること。まずそれが一番なんだ。そのために、新しいジュエリーを生み出して、売らなければいけない。オーダーをこなさなければいけない。

アメ駐 そうなんだ。(前回のダンジャクソンにもそんな話出てきたな。)

じゃあ「オーダーも何もない状況で、子供たちの授業料の支払いが迫っている!」というときはどんな感じ?作るしかないから作るか。。って感じ?

(にやにやし始めるアーロン)

アーロン それが一番の楽しい時だよ!

アメ駐 どういう意味?

アーロン すべて白紙ってことだよ?自分の作りたいものを作って、それが売れるかどうか勝負する。それが自分にとって挑戦で、一番の楽しい時間だ。

アメ駐 なるほどね。

アーロン 昔クレイジーだった時は本当によくケンカしたんだ。昔は「肉体的なファイト」でも、今はそれが、家族を守るための「精神的なファイト」になったんだと思うよ。その勝負に勝つときが楽しいんだよ。

さっきの話に戻るけど、家族を守るということを目的にしているのは、自分のことをちゃんとわかっているからというのもあると思う。自分はハンサムじゃないし、カリスマ性があるわけでもない、だから自分が前に出て名前を大きくしていくっていうキャラクターじゃないってことを自分で分かっている。だから、背伸びせず、自分のできる範囲で家族に何をしてあげられるかを考えられるんだと思う。

アメ駐 ハンサムじゃない?でもいい写真撮れてますよ!?

アーロン 昔は痩せててもっとハンサムだったよ(笑)その後の人生がクレイジーすぎてこんな感じになっちゃったんだ。

でも、僕がジュエリーショーに出ないっていうのもそこかもしれないね。大きな町に行って、テーブル一つに自分の作品を並べて、いつも着ないようなキレイな服を着て、いつもとは違う話し方で作品を売る、なんてことは僕にはできない。それは自分じゃないような気がする。だからどんなセレブのコレクターにも、いつもの話し方で、いつもの穴の開いたTシャツでいる。

アーロン 実際、いくら言葉で説明するよりも見てもらった方が早いしね。説明が面倒だから、仕事を公開することの方が楽なんだ。

アメ駐 なるほどね~、これから先の目標みたいなものとかはありますか?

アーロン 子供たちが大学を卒業するまでは、あと8年間。その後はジュエリーを作る目的もないから、もしかしたらやめるかもしれないな。

アメ駐 え⁉ジュエリーをあと八年間しか作らないって決めてるの?

アーロン 作り続ける理由がなくなるからね。だからそれまでにいっぱいオーダーしてよ(笑) それは冗談だけど、それまでにいったんジュエリーの原点に戻りたいなとは思っている。

アメ駐 原点に戻るとは⁉

アーロン 父はリングシャンクで有名だったって言っただろ?その父が作っていたような、色々な機械がある今では考えられないような、ハンドメイドのトゥファキャストの作品を作りたいと思っているよ。「Make OLD to NEW」古いものを新しくって感じかな。頭の中ではデザインがもうできてるんだ。

アメ駐 なるほど、想像がつかないけど楽しみ。貴重な時間をありがとうございました!

作家の考え方は、本当に深いですね。色々な作家がいるからこそ、それぞれのスタイルで、それぞれの手から色々なジュエリーが生み出されていることを実感したインタビューでした。

 

アーロンアンダーソンの作品はこちらから。

 

アーティストインタビュー「アーロンアンダーソン」歴史編

前回のブログをたくさんの方に読んでいただきました!ありがとうございます。

さっそく続いてですが、本日の記事もインタビューになっています。

2013年にマライカでデモンストレーションを行ったアーロンアンダーソン。このブログでも何回かアーロンアンダーソンの言葉を取り上げてきました。

今回はアーロンアンダーソンのスタジオにて、ジュエリーを作り上げながらインタビューをした様子をお届けします。

アメリカ駐在(以下、アメ駐)まずアーロンが、自分は他のアーティストと違うって思うところはどこですか?

アーロンアンダーソン(以下、アーロン)「新しいことに挑戦することを恐れない」というところかな。いつも新しいアイディアがあったらそれを作品にするのが楽しい。

アメ駐 そもそも元々はどうやってジュエリーを作る道に入ったの?

アーロン 僕の実の父はWilbert Anderson(ウィルバートアンダーソン)といって、トゥファキャスト、サンドキャストでとても有名な人だった。僕は5歳の時から彼のジュエリーの磨きを手伝ってたんだ。ここの手の傷は、その時にできたもの。古い道具を使っていたから今みたいに安全じゃなくて、磨きの時に手を切ってしまった。僕の父はトゥファキャストをいまでいう石膏で型を取るみたいな感じでリング部分の全体を作って、それでリングを作る人というのでとても有名になった。彼はとても有名な人だった。

今では小さくなってしまったけど、その当時はサンタフェインディアンマーケットみたいに大きかったギャラップのセレモニアルで一位をとったことがある。その時大統領だったGerald Fordと父が一緒に写真をとったところに自分もいたよ。

アメ駐 すごい!お父さんのことを尊敬してたんですね。

アーロン 彼がジュエリーを作る所をたしか1993年とか94年ごろだと思うけど、ハリソンジムも見ていたよ。インゴットとかトゥファキャストの基礎は僕の父、ウィルバートから来てると思う。でも、僕は大酒飲みの父のことが嫌いだったしジュエリーなんて作る気はなかった。だから高校を卒業して仕事したんだけどすぐにクビになって、ジュエリーを作ってお金を作るしか方法がなくて始めたんだ。

アメ駐 じゃあもともとは仕方なくやり始めたんだ。

アーロン そう。その時実の父Wilbert Andersonと母は離婚していて、新しい父のWilford Henryもトゥファキャストを作る人だったんだ。最初はすごく嫌だったけど、仕事を辞めた次の日、持っていたのは10ドルしかなくて、そのお金でシルバーを買い、トゥファキャストのバックルを作った。そのバックルを一個作るのに丸一日かかったよ。

アメ駐 そうなんだ、そこからはどうやって?

アーロン その一番最初に作ったバックル、それを買ったトレーダーが出品したらギャラップのセレモニアルでジュエリーのナンバーワンの賞をもらったんだ。今も覚えてるけど、$125で売ったバックルが、賞の賞金でさらに$375もらえて、とにかくうれしかったよ。

アメ駐 すごい、最初の作品がナンバーワンをとる人なんて見たことない!もともと才能があったんですね。

アーロン 当時は銀が安くて自分も安く売ってたけど、自分の技術が上がるにつれて値段を上げていった。新しいデザインもたくさん作っていたし、一人のトレーダーがとても気に入ってくれてそのトレーダーに全部買ってもらっていたんだ。

でも2009年のある時、そのトレーダーのボスがもう自分のジュエリーは買えないと言ってきた。その頃自分はお酒を飲んでてかなりクレージーな奴でひどい生活をしてたから、ジュエリーを売ったお金をお酒につぎ込んでいる自分を見かねて、”このお金でお前を死なせたくないからもう買わない”って言われたんだ。

そこで、僕はお酒をきっぱりと辞めた。その時にマライカのバイヤーと出会ってマライカにジュエリーを売り始めたんだよ。

アメ駐 そうなんですね、「買わない愛」、なんか分かるな。

それにしてもマライカとはなんだか運命的な出会いだったんですね。思えばその頃のマライカの品揃えの中でのアーロンアンダーソンは、初めて「高価でアートな作家」で、今考えると実は結構チャレンジだったと思います。

アーロン 僕のトウファキャストは、全く同じように作ればだれでもできる。特に道具がいっぱいいるわけでもないし、一番伝統的なナバホのジュエリーの手法だからね。だからこそ、「他の人と違うものを作る」というのを常に考えている。

アメ駐 なるほど、だから他のアーティストとは差別化できるんですね。他の人がマネすることを嫌がる作家がとても多いですけど、アーロンは自分の仕事をすべて公開してますよね。何回か話をしたこともあるけど、マネされることについてはどう考えてる?

アーロン 僕が超クレイジーだった時は、自分がカービングしたトゥファを知り合いにあげて、その人が自分のジュエリーとして売っていることもあった。「自分のデザイン」っていう誇りを持ち始めたのはそれを辞めてからかな。それでもすぐに新しいデザインは誰かにマネされ続けているよ。

でも、マネされなくなったら終わりだと思う。それは影響力がなくなったってことだと思うから。でも、マネされても追いつかれないように常に新しいデザイン、新しいやり方で進んでいかなきゃいけない。それが楽しいんだよ。

アメ駐 なるほど。だから色々な人に技術を教えることを続けてるんですね。

アーロン そう。ネイティブに限らず、日本人にも、中国人にも、この前はナミビアの人も見に来た。仮に全く同じデザインで全く同じように見えたとしても、その作品には「AaronA」の刻印は入っていないからね。

この続きは、次回。

アーロンアンダーソンの作品はこちらから。

 

 

アーティストインタビュー「ダンジャクソン」

ラグデザインで定番人気となっているダンジャクソン。

御年76歳のベテランアーティスト、Dan Jackson。今年はもうリタイアだと言いながらも、コレクターの熱に押されまだ現役でラグパターンの人気ジュエリーを作り続けるダンジャクソン。マライカアメリカ駐在にとっても、オーダーがなくてもただお店に顔を出して世間話をしに来てくれる、アーティストを超えた存在です。

今日はそんなダンジャクソン氏へのアーティストインタビューを記録しました。(敬語は省いてフランクな形で訳してみました。)

 


アメリカ駐在

ダンジャクソン(以下ダン)はどうやってジュエリー制作の道に入ったの?


ダンジャクソン

すべて、父のJohn Nez Begayから習い、始めた。父は106歳まで生きたんだ!故トーマスカーティスやウィルソンジムも彼からジュエリーの基本を教わったんだよ。


アメリカ駐在

106歳!っていうと何年生まれ?


ダンジャクソン

たしか一番最後の娘が35歳の時に亡くなったから・・(電卓を手にして計算するダン氏)・・・・1877年!!


ダンジャクソン

その頃は、道具、銀のシートとか何にもなかったから、スクラップシルバーや銀貨を溶かして作る、今でいう本当のオールドスタイル。そこから学んだんだ。


アメリカ駐在

ダンも最初からラグパターンの今のスタイルだったの?


ダンジャクソン

いや、最初はシャドーボックスやカウボーイスタイルのエングレービングっていう表面に削ってデザインを描くジュエリーを作っていた。  

今のラグパターンでエングレービングしている技術はそこから来てるんだ。


アメリカ駐在

じゃいつからラグパターンのスタイルになったの?


ダンジャクソン

父が亡くなる前。母はナバホラグのウィーバーだった。そこから、父がラグパターンを作るようになった。父が亡くなる前に、自分にそのスタイルを継いでほしいと言われたんだ。

ナバホラグ
ナバホラグ

ダンジャクソン

実はラグパターンって簡単なようですべて自然が由来の深い意味があって、ここのラインははみ出てはいけない、とか、この形はこうでなければいけない、っていう決まりがある。母にそれを教わり、父にそれをシルバーに描く技術を教わった。


アメリカ駐在

そうなんだ、お父さん、偉大ですね。


ダンジャクソン

私の両親は本当にすごい人たちだった。父はモカシンを作る人でもあって、とても伝統的な暮らしをして、母はラグを織って、ものが必要だったらそのラグをトレーディングポストにもっていって食料とトレードしたし、羊を飼ってトウモロコシを育てていたから食べるものはあった。


アメリカ駐在

ザ、ナバホの生活ですね。他にお父さんの教えで引き継いでいることはありますか?


ダンジャクソン

父がジュエリーに関していつも言っていたことが二つある。 「Never Go Light」軽いほうに逃げるな。と、「Never make too much」多く作りすぎてはいけない。ということ。


ダンジャクソン

軽いほうに逃げるな、というのは銀(シルバー)を銅にしたり、ゲージを下げて薄くするということ。私は一番最初にジュエリーを作り始めたときから、シルバーとゴールド以外触ったことがない。ニッケルや銅では絶対に仕事をしない。そしてシルバーの値段が上がっても下がっても、同じ厚みで作り続けている。それは父の教えがあるからで、だからこそ長年使い続けることができる作品になると自分も信じている。薄いシルバーで価値の低いものものを作るのではなく、厚みを確保して家宝になるジュエリーを作る。


アメリカ駐在

なるほどー!すごい深い。


ダンジャクソン

多く作りすぎてはいけない。と言うのは、ジュエリーを作ってお金に換えるというのはあくまでも家族を養うための手段だということを忘れてはいけないという意味。多く作りすぎて、必要以上に多くのお金を手にする必要はない。私は毎年、インディアンマーケットに行くときは自分でたくさんの在庫を作って持っていこうと思うのだけど、どういうわけか、自分では例年19個、以上作れないんだ。これは父がどこかで操作しているに違いない(笑)  なんて冗談だけど、「作りすぎると自分に返ってくるから気をつけろ。」とよく言われたんだ。


アメリカ駐在

作りすぎると市場にあふれちゃって価値がなくなるってことを言いたかったんですかね?


ダンジャクソン

そうかもしれない、当時は今みたいに作家の名前とかが重要視される時代じゃなかったけど、「自分に必要な分を必要なだけ作る」っていうことだと思う。


アメリカ駐在

余計な欲を出しちゃいけないってこと?


ダンジャクソン

そうだね、それはナバホ族の伝統的な信仰でもある。お金を持つことは目的じゃなくて、本来はお金はただ家族を養うための手段であるべきなんだ。なかなかそれができないけどね。


アメリカ駐在

なんかすごい話が聞けました。このお父さんは、トーマスカーティスやウィルソンジムにもシルバースミスの道へのきっかけを作った人なんですよね?


ダンジャクソン

そう、アリゾナ州のDelconにいた唯一の腕のいいシルバースミスは僕の父だったからね。彼しかいなかったっていうのもある。彼らはその後独自のスタイルを作り上げているから、僕の「父に習った」っていうとどういう反応をするかは分からないけど、彼らはみんな僕の家族だし、少なくとも彼からの影響は受けている。


アメリカ駐在

そうなんだぁ。すごい、その後エディソンスミスとかジェニファーカーティスとかもすべてそこからスタートしているんですね。 ダンは自分のジュエリーの継承についてはどう考えてるの?


ダンジャクソン

娘二人はチャレンジしたことが何回かあるけど、根気がないからね。

ダンジャクソンのシルバーのカット前
ダンジャクソンのシルバーのカット前

アメリカ駐在

確かに、このジュエリーはモノスゴイ根気がいりますよね。。。でもぜひぜひ誰かに継いでもらいたいです!!


ダンジャクソン

僕はもともと父のラグデザインを継承したいから、このラグデザインにコピーライトをつけたんだ。甥っ子のトミージャクソンも本当はまねできない。でも時々してるけど(笑) それは家族を守るという意味でそうしたんだよ。僕のマネをしているジュエリーを見かけることがあるけど、ラグデザインの本当の意味を分かっていなくて、変なデザインになっているのを何回か見たことがあるよ。


アメリカ駐在

そうなんだ、ラグデザインの出どころはすごい深い話だったんですね。ダンの奥さんは今も伝統的衣装を作っているし、次回はDelconに行ってレポートしたいです。


ダンジャクソン

うん、雪が解けたらね(笑)

 

インディアンジュエリーのアーティストが「ブランド化」していく中で、「自分の必要な分を必要なだけ作る」を続けていくのは実は結構難しい時代に来ています。そんな真髄を聞くことができたインタビューでした。

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